352.5.獣(1)

思った通り、いい夜になった。
月は煌々と輝き、空には雲ひとつない。
夕方に買っておいた三本の酒瓶入りの袋を肩にかけ、キャドは宿の階段を上っていく。
こんな夜にあの部屋で飲む酒は、きっと美味い。

ドアをノックしてみたが、反応はなかった。
-まだ帰ってないのかね。
キャドはポケットから合鍵を取り出した。ロイドに渡されたものだ。
-こんなもん、使うことなんかねぇと思ってたがなぁ。
鍵を開けて、暗い部屋に機嫌よく入った。
「…う」
突然、全身がざわっと強い悪寒に包まれて、キャドは身を縮めた。
「ロイド?いんのかい?」
思わず暗闇に向かって問いかけたが、返事はない。
-寝てんのかね。
キャドは部屋の中央にあるテーブルに向かって、足を進めた。大きな窓から一面に差し込む青白い月明かりと、影のコントラストが素晴らしい。
-いい部屋だよなぁ。
しみじみと思いながら、袋をテーブルに置こうとして、
「!?」
キャドは一瞬でドアの近くまで飛び退った。
床に落ちている影の中で、何かが動いたのだ。

「…」
キャドは後ろ手でドアノブを握ったまま、"何か"のいる方向をじっと見据えた。
影の中から、ゆっくりと月明かりの中へと姿を現したそれは、真っ黒な、四つ足の大きな獣だった。
「…」
キャドは緊張を保ったまま、獣を見つめている。
獣は窓際で身体を伏せると、金に近い飴色に光る眼で、キャドを見た。
「!!」
キャドは袋を取り落とした。酒瓶が鈍い音を立てる。
「…、ロイド?」
獣は静かにこちらを見ている。
キャドは、微かに震える足で獣に歩み寄った。

獣はやはり、大きな狼だった。鼻先から尾の先まで、2mは超えている。
キャドが近付くと、黒い狼は両の前足を立てて、身体を起こした。
キャドはゆっくりと、静かに、狼の前に膝をついた。今までで一番ひどい鳥肌が、全身を覆っている。
「…ロイドか?」
狼が、微かに頭を下げたように見えた。
「そりゃ、頷いてんのかい?言葉…、言葉は、わかるのか?俺が、わかるか?」
そこまで言って、キャドの心に警戒が蘇った。
獣人、とひとくちに言っても、獣になった時の精神状態は様々だ。人の姿の時となんら変わりのない者もいるが、人であった時のことを完全に忘れる者もいる。理性を失い、獣の本能だけで動く者もいる。
-だったらマズイよなぁ、こりゃあ。
元々、本能ではお互いに敵だと感じているのだ。ロイドの理性が失われているなら、襲われる可能性が高い。
「…ほら、キャドだよ、わかるよな?」
真正面にある獣の眼を見つめながら、言い聞かせるように話しかけてみる。
-何やってんのかね、俺ゃ。
キャドは苦笑した。離れた方がいいとわかっているのだが、足が上手く動かないのだ。

…と、狼の鼻先がぬっと近付いてきて、
「うっひゃ」
キャドの唇から鼻にかけて、大きな舌でべろりと舐めあげた。
「…」
キャドは唇を手で拭って、狼を見た。
「わかってんだな?」
狼は曖昧な仕草を返す。
「わかってんだろ?」
ふい、と顔を逸らす。
「へっ」
体から力が抜けて、キャドはその場に胡坐をかいた。


そのまま長い間、目の前にいる獣を眺めていた。

月明かりの中に佇む漆黒の狼は、闇のインクで描かれた絵画のようだ。


「…」
キャドの口端が上がった。
「…うん」
呟くキャドを、飴色の瞳が見つめている。
見つめ返して、キャドは笑った。

「…すげえよ。」
言った途端に胸の奥から何かが溢れ、涙になってキャドの頬を零れ落ちた。
「…っはは。すげえ」
キャドは笑いながら、狼の鼻先にキスをした。

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