309.背中

食事を終えて、ブルーベルとイチジョウは夜のパーティに向かった。気を利かせたのか、ヒメマルもすぐに席を立ったので、テーブルに残っているのはトキオとティーカップだけだ。
「俺らも、そろそろ宿に戻ろっか」
トキオが言うと、ティーカップは表情を曇らせた。
「…ん、どっか寄ってくのか?」
ティーカップは首を振り、壁際を指差した。
「?」
トキオが指の先を視線で追うと、窓が目に入った。
「あ」
ガラスが水滴で濡れている。酒場の喧騒で気付かなかったが、雨が降っているようだ。
「ちょい曇ってたけど」
言っている間に、窓の外が一瞬白くなった。
「…すぐに降りそうじゃなかったのになー」
トキオは席を立って、窓際まで歩み寄った。雷が時折閃くものの、雨の量はそんなに多くないようだ。

席に戻ったトキオは、ザックの中に手を突っ込んで防水のシートを取り出した。
「雨が弱えうちに帰ろう」
トキオはティーカップの手を取って、立ち上がった。
「…」
ティーカップは眉を寄せて、立とうとしない。
「大丈夫だって」
トキオはティーカップの手をゆっくり、しかし強めに引いた。
しぶしぶ立ち上がったティーカップは、散歩を嫌がる犬のように、立ち止まり立ち止まり、トキオに引かれて酒場の出口まで歩いた。

雨の粒はまだ小さく、まばらだ。
トキオは自分のザックを腹の側に回し、ティーカップに耳栓を渡した。
「…」
ティーカップは溜息をついて、耳栓を詰め込む。
トキオはティーカップの前に移動して、背を向けてしゃがみ片膝をついた。
その体勢のまま顔だけ振り向いてティーカップを見上げたトキオは、自分の背中を親指で指した。
「僕を」
思わず言ってからティーカップは右耳の栓をはずし、低い姿勢で待っているトキオに顔を寄せた。
「僕を背負うつもりなのか?」
「おう」
トキオは笑顔を返す。
「僕の装備の重さを忘れてるだろう」
「俺の荷物少ないから、大丈夫だよ」
トキオの返事は軽い。
「…途中で動けなくなったりしないだろうな」
ティーカップはそう言って耳栓を詰めなおすと、トキオの背に体を預けた。
トキオはシートで自分の背から頭まで、ティーカップごと包むように覆って、胸の前にシートの端を寄せると、シートにつけておいたボタンをしっかり留めた。傍から見ると、二人羽織りのような状態だ。
「っ…と」
腹に力を入れて、立ち上がる。結構な重さだが、歩けないほどではない。
トキオは雨の中へ、軽快に足を踏み出した。
*
高級な焼き肉と創作料理を出す店で、クロックハンドは舌鼓を打っていた。
「ほんまうまいわぁ」
焼けた肉を次々と平らげていくクロックハンドを眺めて、ミカヅキが言う。
「もうひと皿ずつ、追加しようか」
「するする!」
クロックハンドが何度も頷く。ミカヅキは軽く口元を拭くと、店員を呼んで追加の肉を頼んだ。
「ちょい贅沢やけど、たまにはこういうとこ来んとなー」
ひと皿追加するだけでも、普段の食事の倍の値段になる。
「うん。酒場ばかりじゃ飽きる」
「そうなんよな、酒場のメシもそこそこ旨いんやけど。近くにもっと色んな店あればええのに」

たわいのない話と共に食はどんどん進んで、更に追加した肉を食べ終えたところで、やっと二人は満足した。
思わず笑いが込み上げてくるような金額を払い、店の扉を開けると、バタバタと叩きつけるような派手な水音が聞こえてきた。
「雨か…」
「わからなんだな」
壁の厚い店の奥で食事していた二人には、全く雨音は聞こえなかったのだ。クロックハンドは一度、扉を閉じた。
「結構強そうだ。傘を借りようか?」
ミカヅキが言う。
「んー」
クロックハンドはアヒル口になった。
「どうせ風呂入るんや、濡れて帰ればええやろ」
「わかった」
ミカヅキは、傘を持ってきた店員に手を振った。
「ごちそうさーん!」
店の奥に向かってそう言うと、クロックハンドは扉を開けて駆け出した。ミカヅキがその後に続く。

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