273.問診票

イチジョウは床に膝をつき、ベッドに上半身を預けた状態で放心していた。

溜め込んでいた感情を吐き尽くすまでには、かなりの時間を要した。

1人きりの部屋で憚りなく涙を流し続け、体力と気力を使い果たして、イチジョウは糸の切れた人形のように脱力していた。 ドアがコツコツと音を立てた。
-ダブルか…?
思ったが、体を動かす気にはならなかった。もう一度ノックが響いて、
「いるね。開けるよ」
ドア越しに聞こえた声の主は、知っているが思い出せなかった。

ドアがカチリと軽い音を立て、次にガチャリと開いた。
霞のかかったような頭の隅で、イチジョウは鍵をかけたはずだと思った。
「そんな格好で寝たら風邪をひくよ」
その男は入れないはずの部屋に簡単に踏み込んで、ドアを閉めた。

「聞いてたよりずっとひどいみたいだけど」
イチジョウは体も起こさずに、すぐ横にしゃがみこんだ男を見た。
焦点が合わず顔がはっきり見えなかったが、髪と肌の色、声、その他の記憶をつぎはぎして、それがバベルだとわかった。
「なんだか調子が悪いってことなんで、流行りの心のケアをしようと思って」
バベルはごそごそと持ってきた鞄を探りはじめた。


「ササハラを死なせたことを後悔してる?」


突然の質問に、イチジョウの内臓は反射的に締め付けられた。
「俺もそれなりに親しくしてたから残念でね」
バベルは鞄から硬い下敷きのついた問診票らしき紙を取り出した。
「後悔してる?」
「…」
こんな無遠慮な質問には答えたくない。

「はっきりして欲しいね、それで診察の仕方が変わってくるんだ」
バベルは手にしたペンで頭をコリコリと掻いている。
「…帰ってください」
イチジョウが擦れた声で言う。
「答えを聞いたら帰ってもいいけど。後悔してる?」
「…」
イチジョウはこの不愉快な訪問者への嫌悪感と自責に吐き気を感じながら、目を閉じて僅かに頷いた。
「やっぱり、そうだろうね」
バベルは軽く頷いて、問診票をイチジョウの顔の横に置いた。
「状態を調べるための質問が書いてあるから、問いに答えてね」
バベルは鞄を手に、立ち上がった。
「書き終わったら持ってきてくれてもいいし、来なかったら取りに来るよ。じゃ」
イチジョウの返事も聞かずに、バベルはそのまま部屋を出て行った。


数十分かけて波立った気持ちが収まるのを待ってから、イチジョウはのろのろと体を起こした。
洗面所へ移動して顔を洗い、髪を括って、ベッドルームへ戻った。
ベッドに腰を下ろすと、"問診票"が腿に当たった。捨てるつもりで、手に取った。

『君は常に見張られていて、言葉には聞き耳を立てられているらしいので、こういう形で伝える。』

その一行目を眺めても、頭が動かなかった。イチジョウは目を瞑って瞼を押さえ、改めて紙に目をやった。

『俺はササハラの最期を知っている。』

"問診票"を取り落としかけた。持ち直したが、指が震えておぼつかない。
急いで続きを読もうとしたが、字が頭に入ってこない。
イチジョウは頭を振り、目を擦って食い入るように紙を見つめた。
簡単な地図と、短い文章が続いている。

『詳しい話は会ってから。
 いつでも診療所においで。
 常に周囲に気をつけて。』

追伸、念のためにこの紙は燃やすこと。どれだけ親しい相手にもこの話は伝えないように。


動揺に震える両手で、イチジョウは顔を覆った。

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