264.コイン

イチジョウは周囲に警戒しながら宿へ向かっていた。
もし猩々がノリチカから話を聞けば、こちらが動く前に手を打とうとする可能性は大きい。強引に拉致されるかも知れない。

ノリチカの反応を見る為に大袈裟に言ってしまったものの、刺激が強すぎたのではないかとイチジョウは後悔していた。
自分ではある程度落ち着いたつもりでいたが、確実に冷静さが欠けている。
-宿も変えた方がいいか…
弟に伝えた計画は半分本気で、半分でまかせだ。連中から身を守る為に人を雇おうとは思っているが、最終的には魔方陣で脱出するつもりでいる。
-当分、気が抜けないな。
溜息をついて宿の階段を上りきったイチジョウは、部屋の前に立つ人影に一瞬身構えた。

それが誰なのか確認して、
「…なんだ」
イチジョウは表情を緩めた。
「よぉ」
ダブルが手を上げる。その横にいる人物を見て、イチジョウは軽く首を傾げた。
「何か…?」
歩み寄りながらイチジョウがカイルに話しかけると、
「失礼」
カイルはイチジョウの胸と部屋の扉に指をあて、二言三言口の中で何かを呟いた。
カイルの指先から赤い光がふわりと現れ、イチジョウの身体に沿うように流れ、はじけた。

「…何ですか?」
イチジョウが胸を押さえ、不安混じりの声を出す。
「中で説明させてもらう」
カイルはそう言って、扉の方を向いた。
このままここにいても話は進みそうにない。イチジョウは仕方なく頷いて、周囲を一度見回してから部屋の鍵を開けた。
「ダブルは、これを持って入ってくれ」
カイルはポケットから金貨を取り出して、ダブルに握らせた。
「んん?」
よくわからないままに、ダブルも部屋に入る。最後にカイルが入って、扉を閉めた。

「一種の結界のようなもので部屋を閉じてある。基本的に、私とイチジョウしか入れない」
部屋に入るとすぐに、カイルが言った。
「俺は…?」
ダブルが自分を指差す。
「それを持っていれば入ることが出来る」
カイルは金貨を握っているダブルの手を指した。
「このコインは普段はイチジョウが持っていて、部屋に入れたい相手にだけ渡せばいい。必要なのは入る時だけだ」
「…」
イチジョウはダブルから金貨を受け取って、まじまじと眺めた。流通している金貨と同じサイズだが、模様が違う。
「…どうして、こんなことを…?」
イチジョウは訝しげな視線をカイルに送る。
「色々あって、貴方の事情を知っている」
カイルはイチジョウの視線を受け止めて、そう言った。

「これも使うといい」
カイルは胸元から薄いブレスレットを取り出すと、イチジョウの手を取り、その手首にブレスレットを嵌めた。
「これはコインと対になっている。追われるようなことがあれば、これを握って"キイ"の音を発声すれば、コインの周囲に術者が転送される。コインを部屋に置いておけば、部屋に戻れるということだ。簡略化したマロールを使うアイテムだと思えばいい。しかしマロールのような失敗のないよう、コインの周囲に術者が実体化するだけの空間が確保されていなければ転送はされない」
「…は…はい…」
切れ間なく説明するカイルに対して、イチジョウはただ頷くしかない。
「ただ、有効範囲はあまり広くないから気をつけるように。カバーできるのは、半径にしてここからダンジョンの入り口辺りまでだ。それから、高さにも制限がある。この部屋の高さなら、地下2階以上の深さからは無理だ。出来るだけ平地で使うのが無難だろう」
「…あの…」
イチジョウの声が戸惑う。
「必要ないか?」
「いえ…非常に助かります…が…。これは高価な品物なんじゃありませんか?」
「確かにそれなりのものだが、気にしなくていい」
「そこまでしていただける理由が、全くわからないんですが」
「理由は」
カイルは片肘を抱き、口元に手をあて、
「私は悲恋が好きではない、ということと…」
ふっと溜息をついた。
「多少なりとも代償を提供したからには成功してほしいと思ったから、だな」
「…???」
イチジョウはますます混乱した。
「遠出する必要がなければ側にいられたんだが」
カイルは部屋の時計を確認して、頷いた。
「準備があるのでそろそろ失礼する。部屋を移る時などはバベルに話してくれ。それから移動する時の音は"キイ"だ、忘れるな」
「あ、は、はい…」
イチジョウの返事をろくに聞かないうちに、カイルは部屋を出て行った。

「…」
イチジョウは疑問をたっぷり乗せた目でダブルを見た。
「あんま親しいわけでもないのか?」
「パーティで多少顔を合わせた程度です…」
「俺もなんだよな。こないだ、あいつにお前さんの調子訊かれたんで、とりあえず良くないとだけは言ったけどよ」
「それ以外には、何か話しましたか…?」
「いや。ほんとにそんだけだ。他のことは、なーーんも言ってねえ」
ダブルは、ぽりぽりと頬を掻いた。
「…よくわかんねえが、色々助かったってことでいいのかねえ」
「そう、ですよね…」
2人は首を捻りあった。

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