213.ノート

「水が飲みたくて、手近な酒場に入っただけだ」
ティーカップはビアスから水を受け取って、一気に飲み干した。
「…」
トキオはティーカップの左側に腰をおろして、同じく右側に座ったビアスを見た。
視線に気づいたビアスは、こちらに向かってウィンクした。
慌てて目をそらして、
「んで、ここに偶然ビアスがいたってか」
トキオが訊くと、
「そういうことだ」
人心地がついたのか、ティーカップは大きく息を吐いた。
「何の話なんだ」
ビアスが2人に交互に視線を送りながら言う。
「ぇと…」
トキオが言おうとすると、ティーカップは椅子を降りた。
「話して聞かせるほどのことじゃない。行くぞ、トキオ君」
「あ、おい」
トキオは座ったままのビアスを一度振り返ってから、出口に向かっていくティーカップを追った。

通りに出たティーカップは、トキオが追いつくと、
「さて。次はどこに行くんだ」
何事もなかったかのように言った。
「…。もう気分とか、大丈夫か?」
「ああ、水で薄まったようだ」
「…んじゃま…、大道芸通りにでも行くか」
「そうしよう」
歩き出してからしばらく、2人は無言だった。

トキオの頭には、本当にあの薬は効かなかったのか、ビアスは本当に偶然あそこにいたのか、そんなことがずっと渦巻いている。
ティーカップは通りの出店を眺めながら歩いていたが、
「そうそう」
思い出したように言った。
「僕は体を張って毒見したんだ。当然あれはおごりということになるんだろうな」
勝手に飲んでおいて毒見も何もあったものではない上に、飲む前は代金を払うと言っていたような気もするのだが、そんなことは今のトキオにはどうでもいい。
「あぁ…」
トキオは気の抜けた返事をした。
「しかし、あんなインチキ薬に手を出そうという心理はどうにも理解出来ないな。これからは、もう少し考えて買い物をしたまえ」
「…バカっぽい買い物すんのも祭りの醍醐味なんだぞ」
トキオは少しだけ口を尖らせた。
「冒険するにしても、もっと実のあるものを…」
そこで不意に口と足をとめて、ティーカップは出店のひとつへ歩み寄った。

美しいエルフの女性が売り子をしているその出店は、出店というには洒落た店構えだった。
雛段状の台にベルベットがきっちりと敷かれ、クリスタルの綺麗な小瓶が見目よく並べられ、そのひとつひとつの前には更に小さな瓶が置いてある。
ティーカップは小瓶のラベルを念入りに眺めると、極小の瓶をひとつ手にとり、フタを開けた。
「…あ、香水か?」
後ろにいるトキオにも、仄かな香りがわかった。
「お前、香水つけたりすんの?」
「いや、集めるのが好きなだけだ」
ティーカップはその瓶を置いて、また他のものを手にした。
「へえ…」
トキオは近くの極小の瓶-どうやらサンプルらしい-をひとつ取ってフタを開けた。
甘い香りが鼻をつく。
「うえっ」
「そんな近くで思い切り吸い込むからだ」
ティーカップは自分の手首に鼻を近づけている。
トキオは首を傾げて、瓶を元の位置に戻した。
「ちょっと強いような気もするが」
ティーカップは売り子にサンプルを振って見せた。
「これをひとつ」
「かしこまりました」
エルフの売り子は、上品な笑顔で頷いた。

「カーニバルの出店にも当たりはある。冒険するより掘り出し物を探すべきだ」
ティーカップはきっちりと包装された香水を手に、満足げに笑った。
「でも、欲しいもんとか、集めてるもんって別にねえし…」
「だからといって惚れ薬とは、あまりに嘆かわしい」
ティーカップはやれやれとばかりに首を振った。
「あ…ありゃ惚れ薬じゃないだろっ、ちょっと違うだろ」
「似たようなものだ…うん?」
ティーカップの長い耳が、ひくりと動いた。
「そろそろ"大道芸通り"か?」
「ん、もうちょっと先だ」

しばらく歩くと、喧騒に音楽が混ざり始めた。

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