147.牽制
一瞬視界が乱れて大きな声が聞こえたのと同時に、後頭部に強い衝撃を受けた。激しい痛みに顔をしかめながら目を開けると、天井と、すぐ近くで自分を見下ろしている男の剃刀のような視線が目に入った。
「ダブル!!大丈夫か!?」
倒れているらしい自分の頭の上から、声が近づいて来た。
答えようとしたが、思い切り打ったらしい頭が痛くて、
「っつ…」
返事にならなかった。
ダブルは自分の腹に馬乗りになっているミカヅキと、大量の服をひっかけたまま倒れているハンガーポールを眺めた。
これを蹴倒すなりなんなりして、一気に飛びかかってきたのだろう。
-あぁ、チューしたってのに反応しちまったのかぁ…
「早く、ダブルにマディかけたらんかい!!」
クロックハンドがミカヅキを怒鳴りつけた。
あの一瞬に聞こえた声は、クロックハンドがミカヅキを制止する声だったようだ。
あれがなければ、何をされていたかわからない。
忍者の素手が凶器だということを思い出して、内臓が冷えるような気がした。
ミカヅキが跨っていたダブルの腹を解放して立ち上がった時、店員がやってきた。
「お客さま、おけがはございませんか!?」
何かの拍子に、ハンガーポールが倒れたのだと思っているらしい。
「大丈夫です。売り物を汚してしまって、すみません」
ミカヅキは、紳士然とした物腰で店員に謝罪した。
「あ、いえ、お客さまにおケガがなければ、それで」
若い女の店員は、あっさりとミカヅキに好感を持ったようだ。
-うめえもんだ。
ダブルはズキズキと痛む後頭部を押さえながら、立ち上がった。
店員と話しているミカヅキの表情は、つい先ほど自分を見下ろしていた人間のものとは思えない。
-色んな意味で、おっかねえ奴だなぁ。
ダブルは服をパンパンと払って、ズレたバンダナを結びなおした。
「ごめんな、見境なしのあほで」
クロックハンドがダブルのズボンの尻をはたきながら言った。
「しゃあねえよ。そんだけお前に惚れてんだろ」
ミカヅキはポールの真ん中を掴んで、店員と一緒にハンガーを立て直している。
「後はおまかせください」
営業用以上の笑顔を振りまいて頭を下げる店員に、ミカヅキは、
「ありがとう」
爽やかな笑顔を返したが、こちらを向いた時には真逆の表情になっていた。
クロックハンドに促され、不承不承マディをかけてから、ミカヅキはダブルの目を正面からとらえた。
-手ぇ出したらこんなもんじゃ済まねえぞ、ってか。
牽制というより脅迫に近いそれを的確に受け止めながら、ダブルは苦笑いした。
*
静かな馬車の中で、ヒメマルは暇をもてあましていた。同じ馬車の乗客達は、声をかけづらい雰囲気の連中ばかりだ。
挨拶しても睨まれて終わってしまったので、ほろの後ろを開いて、外側 - つまり進行方向とは逆に腰かけた。
景色が変わるぶん、中にいるよりは退屈しないだろう。
巨大な町の城砦が全く見えなくなると、馬車は草原から森に入った。
はじめは小鳥がさえずる明るい景色が流れていたのだが、1時間も進むと、周囲から静かに夜のほの暗さが忍び寄ってきた。
日が傾くまでには、時間があるはずなのだが-
「霧が出るわ」
低い声と共に、ほろの隙間から女性が顔を出した。
怪しい行き先にぴったりの、魔女のように-魔女かも知れないが-色っぽい美人だ。
「入った方がいいわよ」
「濡れちゃうかな?」
「少しね」
「少しならいいよ」
「霧の中に、悪いものが出るわ」
「沢山?」
「少しね」
「少しならいいよ」
女性は笑ってほろの外へ出て来ると、ヒメマルの横に座った。
「恋人はいるの?」
「いるよ」
「どんなひと?」
「可愛くて、美しくて、素直で、頭が良くて、優しくて、ヒステリックで、エッチで、好奇心旺盛で、大胆で、貪欲で、俺と赤い糸で結ばれてる」
「最高なのね」
「最高さ」
霧が、出はじめた。