144.梗花

「なんで輿入れなんかさせたんだ、俺はなんとも答えてないだろ?」
イチジョウは不愉快さを丸出しにして、目の前の男を睨みつけた。
「あれが形だけのお見合いで、最初からお輿入れいただくことが決まっていたことは、知っておられたでしょう」
幼い頃からイチジョウの面倒を見てきた初老の男は、全くひるまずにそう答える。

イチジョウは溜息をつくと、テーブルを軽く叩いた。
「そうだ。知ってたから家を出たんだ。お前にだって、それぐらい予想がついたろう。戻らないことも想像出来ただろうに、なんで輿入れさせたんだ」
「お家の都合です」
男は当然のことのように答える。
「気の毒な話だ」
「そう思われるなら、お戻り下さい。奥様は、正親様がお帰りになるまでいつまでもお待ちすると言っておられます」
「俺が女には興味がないってことを言ってないのか?」
「こちらからお見合いの席をもうけておいて、そのようなことが言えましょうか?…とはいえ、…そのことは矩親(のりちか)様がお伝えになってしまいましたが…」
イチジョウは、気の利く―性分を考えれば、気を利かせたわけではなかったのかも知れないが―弟の頭を、心中で撫でた。

「で、梗花殿はそれを知っても待つと言ってるのか?」
「左様でございます。気に入っていただけるように努力すると」
イチジョウは、肩ごと溜息をついた。
両刀の気が一切ないイチジョウにとっては、どれだけ相手がいい娘でも恋愛の対象にはなり得ない。お嬢様育ちのヘテロの女性に、この感覚を説明するのは不可能だろう。努力でなんとかなると思っているのだ。

「死んだと伝えて、実家に帰ってもらえ」
イチジョウは投げやりに言った。
「このヤズエに嘘をつけと申されますのか。その悲報をお聞きになって母上様がどれだけお心を痛められるか、お考えください」
「矩親に本当のことを言って、2人でうまくフォローしてくれ」
「矩親様は、家におられません」
「何?」
「正親様がお家を出られてひと月と経ちませぬうちに、矩親様も出て行ってしまわれました」
イチジョウは思わず笑いを漏らした。
「笑い事ではございませんぞ」
ヤズエが硬い声で言う。

「…見つからないのか?」
「この辺りにおられるはずです。私は矩親様の足跡を追ってここまで参ったのです。まさか正親様にお会い出来るとは思いませなんだ」
「そうか」
辿れるような足跡を残してしまうのが、弟らしい。
―相変わらず詰めが甘い。
目を閉じ、額に指先をあててイチジョウは苦笑した。
郷里を出てからしばらく思い起こさなかった弟の姿が、瞼に浮かぶ。
そういえば、弟の面差しとササハラのそれには、通じるものがある。
-性格は全く違うがなあ。そういえば、矩親も25になったか。
イチジョウの頬が、自然と緩んだ。

「…、…、…!!…」
ヤズエが何か言っているが、イチジョウの耳には入っていない。
無性に弟に会いたくなってきた。
近くにいるのなら、捜し出してササハラと3人、一緒に東へ向かってもいいが…
―揉めるだろうな…
ササハラはともかく、矩親は、イチジョウに近づく者に敵意を剥き出しにしてしまうタイプだ。
思えばあれはブラザーコンプレックスというものだったのではないだろうか。
―ブラコンにファザコンか…
イチジョウの顔に明らかに笑いが浮かんだのを見て、ヤズエは声を荒げた。
「聞いておられますのか!!!」

頬から笑いを落としたイチジョウは眉間を寄せて、再び溜息をついた。
「何を言われても家に戻る気はない。母者の立場を慮るつもりはないし、梗花殿への気遣いもない。後ろめたさも全く感じていない。いくら話しても無駄だ。帰れ、ヤズエ」
はっきりと言い放ったイチジョウは椅子を蹴るようにして立ち上がると、追いすがる声を無視してパーティのテーブルへ向った。


「トキオ君は、休みを伝えに来たんですか?」
イチジョウは、テーブルに1人残っていたクロックハンドに笑顔で訊いた。
「うん、ティーが昨日の雨かぶったかなんかで調子悪いんやて」
「風邪ですかねえ」
イチジョウはメニューを手に取った。

「なあ、イチジョウほんまに奥さんおんの?」
クロックハンドがややアヒルになりながらジュースのコップを口にあて、イチジョウを見つめている。
「いやあ…お見合いさせられたもので、次の日に家出したんですよ。私がいないうちに勝手に縁談がまとまっていたみたいですね」
「なーんや」
クロックハンドは笑って、ジュースを飲んだ。

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